輝き渡るイエス2013年08月08日 07時53分36秒

さて、十字架が立ったことを告げる聖書場面(第58曲)に続くアルトⅠのレチタティーヴォ〈ああ、ゴルゴタ〉(第59曲)は、作品の流れの中で、重要な分岐点に位置しています。ここで、ヴィオローネ+オルガンとチェロのピチカートにより、時満ちたことを告げる鐘の音が響いているからです。それは弔鐘であると同時に救いへの希望の鐘であることが、テキストから理解されます。

その響きがきわめて印象的なのは、この楽曲が変イ長調を基礎としながらもたえず♭、♭♭の臨時記号を内に孕み、♭圏に深く傾斜して、♯満載の群衆の合唱と、鋭い対照をなしているからです。♯圏への傾斜を強める聖書場面の中にト短調のアルトII・アリア、ニ短調のバス・アリアが置かれているため、悲劇と省察の間にはしばらく乖離が生じているのですが、ユニゾンの「私は神の子だIch bin Gottessohn」がホ短調(主調)に歴然と終止したあとに〈ああ、ゴルゴタ〉が響くと、音楽はもう♯調には戻らず、非♯調の楽曲を連ねて、フィナーレへと至ります。以後の30分ほどを「救いと鎮めのゾーン」と呼びたい。ここでどのぐらい「変われる」かが、演奏の感動を左右します。

この偉大なる転換点、戦略上の要衝で、変ホ長調のアリア〈見よ、イエスが私たちを抱こうとして両手を広げているのをSehet, Jesus hat die Hand, uns zu fassen, ausgespannt 〉(第60曲)が登場するわけです。

スタッカートを指定された通奏低音は、十字架が高く伸び上がるような音型を繰り返したあと、鐘の音を鳴らし続けます。アルトは、十字架につけられたイエスの姿に対する、視点の転換を要求する。それは、第2合唱に呼びかける形で行われます。Sehet・・・Kommt(来たれ)!Wohin(どこへ)?のやりとりは、Kommt・・・Sehet! Wen?(後にSeht! Wohin?)という冒頭合唱のそれを、ほうふつとさせます。冒頭合唱における対話が、ここで再現するわけです。

しかし、十字架が実現した今、状況は変わっている。アルトは「イエスの御腕に救済を求めよ」と述べ、ここで初めて、「救済Erlösung」の概念を明示します。それは、生きること、死ぬこと、憩うことが同義となる世界の開かれであることが、中間部で明らかになる。lebet(2回提示)、sterbet、ruhetの3つの動詞は絵画的な音型として対比的に造形されていますが、それらが「ここhier」ではもはや1つものである、さらに言えば「生きる」ことにおいて1つのものであることを、音楽の流れが、力強く物語っています。

この偉大なパッセージは2回繰り返されますが、そこにはオーボエ・ダ・カッチャのモチーフを敷衍した「あなた方、見捨てられた雛たちよ(Ihr, verlassnen Küchlein)の呼びかけが、慎ましく一度限り寄り添っています。感動的なポイントだと思います。

そう思って見ていくと、このアリアを通じて、十字架上のイエスという一種悲惨な対象が、崇高なものとして輝き渡ってくるような印象にとらわれます。「変容アリア」と呼びたい、と申し上げたゆえんです。見直せば見直すほど、その重要性に心を奪われてしまいます。

コメント

_ taisei ― 2013年08月08日 17時14分49秒

またまた、ブラボー!です。惜しげもなく楽曲分析を披瀝して頂いて・・・。調性からその調の表示さえにも意味がある、テキストはもちろん、それを全体から俯瞰しての位置づけなどなど、「なるほど。そういう意味があるのか」と改めて気付かせてくれます。マタイをじっくり聞いてみたくなります。

_ かみや ― 2013年08月09日 19時59分22秒

素晴らしいヒントです。とくに先生の「救済」論集を読んでいてバッハの救済の意味が、腹に落ちます。ワーグナーの「神々〜」に於けるハーゲンの、アルベリヒから続く「原罪」からの救済というのは、性質の異なる救済であることも救済と言うのでしょう。いずれにしろ、この「救済」と言う概念が、調性やテクストによって高められ、聴くものに感動を与えるという希有な作品群に、私はこだわりたく思います。

_ taisei ― 2013年11月06日 23時13分45秒

来年のルツェルン音楽祭。一番はきっとアバド=ルツェルン祝祭管:ポリーニのブラームスのピアノ協奏曲1番&交響曲3番でしょうが、注目すべきは、ベルリンフィル=ラトルでマタイ受難曲が演奏され、「演出」があって、演出家があのピーターセラーズ。これは当たりでしょうか、外れでしょうか?いずれにしろ興味津津、出来れば一度見てみたいものです。

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