芸者歌手2014年05月13日 01時15分12秒

いずみホール「日本のうた」シリーズのために、歌謡曲の歴史を勉強しています。今はそのオリジナルが、You tubeでたくさん見られるんですよね。ワインを飲みながら逍遙するうちに夜が更ける、ということがよくあります。

今日もいろいろな画像を見ていたのですが、昔存在して、今はないのが、芸者出身の歌手によって歌われる、日本調の歌謡曲。神楽坂はん子、神楽坂浮子、小唄勝太郎、音丸・・。みなさん伝統芸能の素養をお持ちですから、たいへんお上手です。

でも今夜、すばらしさに震撼してしまったのが、市丸さん。有名な方ですが私より40歳も年長ですから、若い頃はさほど親近感を感じていなかった。しかし今見直すと、じつに際立っておられるのですね。《三味線ブギ》、《天竜下れば》の二大ヒット曲を、You tubeで見ることができます。

《天竜下れば》の映像は、調べてみると84歳。しかしじつに洗練されていて美しく、歌に、華と色香があります。ワインが回っているせいか、観ていて涙が止まりませんでした。

こういう人たちが、皆さん、この世にいらっしゃらないわけです。そのことに感傷が湧くのは、私が年取ったということでしょうか。

【付記】いま市丸さんのWikiを観たら、市丸さん、松本のご出身なのですね。よきかな、松本!

ワーグナーはなぜ長いか2013年05月28日 09時38分32秒

先日の研究発表後の懇談のおり、ワーグナーは長くて、とおっしゃる方が何人かおられました。その折りに述べた私の「なぜ長いか論」をご紹介します。もちろん長い理由は複合的で、最終的にはワーグナーの人間性がかかわってくると思いますが、ちょっと気づきにくい(と思われる)一要因について述べました。答は、「ワーグナーが自分で台本を書いたから」というものです。

ワーグナーは、台本も音楽も自分で書きましたが、台本を作りながら作曲していったわけではありません。彼の中には台本作者と作曲家が別々に住んでいて、まず台本作者が台本を書き、その完成後に、作曲家にバトンタッチするという順序を踏んでいました。台本が完成すると、必ず朗読会をやって、新作を披露する。先に出版してしまったこともあるほどです。

こうして出来上がった台本に対して、音楽を付けていく(もちろん一からではないでしょうが)。ということは、台本が戯曲として完結している、ということです。すなわち、言葉の委曲を尽くして台本が出来上がっており、説明も遺漏なく入っている。本来、オペラの台本としては長すぎるのです。

既成の戯曲をオペラにする場合には、音楽の時間を考えて、ずっと短くするのが通例(シェークスピアに基づくボーイトの台本のように)。プロのオペラ台本作者なら、当然そこは呑み込んで作詞します。しかしワーグナーの場合にはそうした歩み寄りがなく、出来上がった修辞あふれる台本をすべて生かしていくために、長くなるのです。

しかし、よく言われるように、「長さも作品の一部」であることは確かです。《トリスタン》の第1幕は、イゾルデの恨み言がくだくだと続いていて、冗長といえば冗長。しかしだからこそ、半ば過ぎに来る毒杯の場面が、大きな感動を与えます。幕が上がってさっそく毒杯では、あの効果は生まれません。

そこまで想定して長くなっている、という可能性は大いにありますが、《リング》で前編のストーリーがたえず回想の形で入ってくるのは、さすがの私もやや過剰かな、と思うことがあります。でもスリムかつ簡潔になってしまったら、もうワーグナーではないですよね。

今月の特選盤2013年04月27日 08時25分39秒

音楽史上評価のむずかしいもののひとつが、シューマンの後期作品です。再評価の要請が根強くある一方、人気曲としてなかなか浸透しないことも事実。私も、辛い思いをぬぐえない、というのが正直なところです。

そこへ、作品の問題点を十分認識しながらも、それに勝る愛をもって、技術的にも最高の充実度で後期歌曲を再現する、すばらしい録音があらわれました。加納悦子さん(メゾソプラノ)と長尾洋史さん(ピアノ)による、「メアリ・スチュアート女王の詩~シューマン・後期歌曲集」(ALM)です。 op.83の《3つの歌》から op.135の標記作品まで、34曲が収められています。

演奏には本質への鋭利な洞察力が一貫して感じられますが、それを裏付けるのが、ご本人による解説です。ぜひ全文を読まれることをお薦めした上で、すごいなあと思った最後のパラグラフを引用させていただきます。

「後期歌曲」でシューマンは「表現する」のではなく「魂が語る」ような歌を作り出した。「1840年-歌の年-」の作品たちの流麗なピアノパートは見る影もないし、骸骨のようになってしまった歌たちは「歌う」というよりは「念じる」といった感じに近い。枝葉を落とした木々のように、それらの歌曲は立ちすくみ、しかし、まだしっかりと地中深く根を張って、天を向いて立っている。(加納悦子)

《ローエングリン》讃2013年02月19日 10時26分36秒

「楽しいクラシックの会」の今年のテーマがワーグナーですので、作品をひとつひとつ調べ直しています。

《さまよえるオランダ人》と《タンホイザー》の間にワーグナーの大きな成長があり、《タンホイザー》自体にも幕を追うごとに充実があって、第3幕のすばらしさは格別、という認識を得たのですが、さて、《ローエングリン》はどうか。何となくこの作品は苦手、というのが偽らざるところでした。

しかし第1幕を勉強し直してみて、脱帽の心境です。《タンホイザー》の第1幕と比べても、ワーグナーの世界は格段に深められ、発展しています。ポイントは3つで、玄妙な和声の美、三管編成と弦の分割による多彩をきわめた音色、卓越した劇的構成。その認識は以前からありましたが、今回調べ直し、ここまで進んでいるのかとあらためて驚いた、ということです。

私の尊敬する米沢の友人は、音楽をたいへん広く、深く聴いている人。昨夏訪れたとき、彼があらゆる音楽で一番好きなのは《ローエングリン》の前奏曲だ、と言ったのでびっくりしました。もちろん、聖杯の接近を暗示する第1幕の方です。

そこで、フルトヴェングラーがベルリン・フィルを指揮した1930年の録音を引っ張り出して、聴いてみました。これが、すごい。聖杯の国が少なくとも芸術の中に存在することを確信していなければ、このように生命力のある演奏はできないでしょう。聴く方も、その確信を共有したい。ネズミの走り回るさまを見ながら聴く音楽では、絶対にありません。

こういう勉強ができ、作品に新たに感動できるのは、お仕事の場をいただいているから。「たのくら」に感謝です。

ケージ問2012年09月05日 23時17分43秒

今日、9月5日は、ジョン・ケージの生誕100年の日だったそうですね。ケージといえば私の周囲にたくさんのファンがいます。しかし私は、まだ、どう聴いていいかわからないでいる段階。そこで、宮田まゆみさんの”One9”を聴きにでかけました(サントリー・ブルーローズ)。これは晩年のケージが宮田さんのために作曲した、笙独奏の大曲です。

宮田さんとは長い知り合いですが、本当に立派になられましたね。冒頭、持ち前の楚々とした口調でおっしゃるには、静かに耳を澄ます曲なのでリラックスして聴いていただきたい、とのこと。静かに耳を澄ますというのは、私が最近価値として強調していることです。私は喜び、リラックスして耳を澄まそう、と思って聴き始めました。

響いてくるのは、微妙な差異をはらみつつ進む、天国的な笙の響きです。リラックスして耳を傾けるうち、私はいつしか、ぐっすり眠ってしまいました(汗)。いびきでもかいたら大変ですから、しまったと目を覚まし、神経を張り巡らせて、響きに集中。あれ、でも緊張しちゃダメなわけですよね。音楽も、ロジックを追うようにはできていません。

そこで客席を見回すと、ここだけの話ですが、生き生きと聴いておられる方も多い一方で、かなりの人が寝ています(笑)。そこで思ったのは、ヒーリング効果で寝るのはかまわないのか、やはり寝てはいけないのか、そういうことを考えること自体必要ないのか、ということ。10~15分の曲が10曲あり、休憩なしに進行しますので、微細な変化に富むとはいえ、単調に思えることも事実。そう思って軽い諦念を覚えたところで、そうか、心を空っぽにして、無我の心境で聴けばいいのではないか、と気づきました。

でも悲しいかな凡人で、すぐに無我の心境にはなれないのです。宮田さんが精魂尽くしたたいへん立派なコンサートでしたが、私がケージの世界に入っていくには、もう少し時間がかかりそうです。

存在への愛2010年12月10日 11時54分00秒

毎朝9時からやっている「オペラ史B」の授業が、あと1回を残すのみになりました。

「B」で採り上げるのはイタリア・オペラ以外の作品。1日1曲で、今日まで12曲を勉強しました。パーセルの《ディドとエネアス》、ラモーの《優雅なインドの国々》、ヘンデルの《ジュリアス・シーザー》、モーツァルトの《後宮からの誘拐》と《魔笛》、ワーグナーの《タンホイザー》と《ニュルンベルクのマイスタージンガー》、ムソルグスキーの《ボリス・ゴドゥノフ》、シュトラウスの《ばらの騎士》、バルトークの《青ひげ公の城》、ショスタコーヴィチの《ムツェンスク郡のマクベス夫人》、ガーシュウィンの《ポーギーとベス》の12曲です。

ほとんどの学生がイタリア・オペラの勉強から始めるので、知らないオペラばかり、という人もけっこういたはず。しかし皆さんは、むしろ足りない曲を、次々と思い浮かべられることでしょう。どうしてベートーヴェンの《フィデリオ》がないの?ウェーバーの《魔弾の射手》は?ヨハン・シュトラウスの《こうもり》は?オッフェンバックの《ホフマン物語》は?チャイコフスキーの《オネーギン》は?サン=サーンスの《サムソンとデリラ》は?マスネの《ウェルテル》は?ドビュッシーの《ペレアスとメリザンド》は?ヤナーチェクの《イェヌーファ》は?プーランクの《カルメル会修道女の対話》は?等々、きりがありません。

世界のオペラは、これほど、広い世界なのですね。指が20本あっても30本あっても、傑作の数には及ばない。今日の《ポーギーとベス》(ラトル指揮)は、昨日の下調べの段階から感動してしまい、涙ながらに資料を作成(笑)。今日また、ブルーノートに酔いしれた、という感じです。

たくさんのオペラを時代順に見てきて思うこと。作風や様式は全然曲によって違いますし、硬派な素材も、軟派な素材もある。でも名曲のすべてを貫いているのは、存在への愛、存在をいとおしむ心ではないでしょうか。それを共有できるのが、オペラの体験だと思います。

人間のいない世界2010年06月18日 23時44分36秒

聖心女子大学の授業、新約聖書の内容を追いながらそれにちなむ音楽を紹介して、復活、終末と進んできました。復活のからみで紹介したのが、ノートルダム楽派のオルガヌム(12-13世紀)。終末との関連で紹介したのが、メシアンのオルガン曲《鳥の歌》でした。前者にはヒリヤード・アンサンブルの、後者にはマルクッセンのDVDがあります。

こう並べてみて、中世と20世紀の親近性を痛感。この不思議な魅力の共通点は何だろう、と思っていて気がつきました。どちらの世界にも、人間がいないのです。人間がかかわってはいても、その音楽は、人間の向こう側の世界をはっきり指し示している。メシアンの音楽が、ことにそうです。

われわれが平素親しんでいる音楽にも、鳥はたくさん登場します。しかしそれは、人間の世界に住んでいる。自由に飛翔する鳥へのあこがれが歌われたり、鳥に恋人への思いを託したり、ナイチンゲールに恋の嘆きを聞いたり、というのが、音楽における、われわれの鳥とのかかわりです。

しかしメシアンの音楽には、鳥の声だけがある。ものすごい耳で聴き取られ、精密に採譜された鳥の声は、この世を超えた透徹の世界で、神への讃美を歌っています。これってすごいなあ、と思うようになりました。

歴史への夢2010年05月24日 10時28分53秒

ベルリオーズの超大作と聞くだけで、腰が引けてしまう、ということはありませんか?私が、そうでした。今月の1位にした歌劇《トロイアの人々》(2003年、パリ・シャトレ座のライヴ)の場合、全5幕で、合計4時間。なんとなく、誇大妄想のイメージを感じてしまいます。

でも、そうではないのですね。ガーディナーの名演奏の貢献によるところが大きいと思いますが、明快で、焦点が決まっている。エキゾチックなバレエなど、サービス精神満点の見せ場が、いくつもある。娯楽としても楽しめる、華やかな作品なのです。いつもながら、合唱には感心させられます。

全5幕が2つに分かれていて、第1幕、第2幕は、トロイア落城の物語。第3幕から第5幕はカルタゴ女王ディドンの物語で、一見、継ぎ合わせのよう。しかし鑑賞すると、一貫した太い柱があることに気がつきます。作曲者であり台本作者でもあったベルリオーズは、トロイアを落ち延びた勇将エネ(アエネーイス)がディドンとの愛を乗り越え、ローマの建国を見据えてイタリアへ向かう流れを強調しているのです。

敗れたトロイアがじつはローマとして生まれ変わり、ギリシャに対抗する形で世界の覇権を得てゆくこと。西欧の文化の源流が、じつはトロイアに発していること。それをベルリオーズは一晩のうちに表現したくて、5幕もの大作を書いたのでしょう。背後に、歴史への壮大な夢があります。

このことを理解することによって、パーセルの《ディドとエネアス》を見る目が変わってきました。今度、私の好きなピノックの演奏で、「バロックの森」に取り上げます。

テレマンもいいですね2010年05月07日 00時41分26秒

連休が終わり、NHKの収録から、仕事が始まりました。聖霊降臨祭の週の最後の2日(5/28、29)分で、シュテルツェル/バッハの重さから脱却しようと、テレマンを取り上げました。

29日は《パリ四重奏曲》の特集。これはもちろんテレマンならではの世界なのですが、28日の初期作品の特集が、自分としては面白かったです。10代後半、ヒルデスハイム時代に書いたカンタータなんて、天才的ですよ。ライプツィヒ大学の学生だった時代のカンタータも重みがあり、テレマンが基本的には、ルター派教会音楽の正統を受け継ぐ力量の持ち主であったことを窺わせます。どうやら年を重ねるにつれて、楽天的になっていったようです。私もそうかな。

昨日も石丸電気に行って、輸入盤のCDをたくさん集めてきました。プログラムを作るにあたって幅広く耳を通しますから、とても勉強になります。知られざる演奏家による信頼のおける録音が、ずいぶんあるものですね。ペーター・ヴォルニーやクラウス・ホーフマンのような一流の人も、よく解説を書いている。面白いものを、たくさん紹介してゆくつもりです。

モーツァルトのアルト?2009年09月14日 22時58分12秒

モーツァルトのオリジナル楽譜では、ソプラノ、アルト、テノールは、ハ音記号で書かれています。ソプラノはソプラノ記号(第1線がc)、アルトはアルト記号(第3線がc)、テノールはテノール記号(第4線がc)で書かれているのです。バスは、へ音記号。全部違う記譜法ですから、読むのがたいへんです。この点では、バッハも同じ。ト音記号は、声楽用には使われませんでした。

したがって、その楽譜の声種が何であるかは、音部記号を見ればわかる、ということになります。そこで調べてみると、《フィガロの結婚》に登場する5人の女声(伯爵夫人、スザンナ、ケルビーノ、マルチェッリーナ、バルバリーナ)のパートは、全部ソプラノ記号で書かれていることがわかりました。《ドン・ジョヴァンニ》は、どうか。これも同様で、アンナ、エルヴィーラ、ツェルリーナのいずれも、ソプラノとして記譜されています。

《コシ・ファン・トゥッテ》では、フィオルディリージ、ドラベッラ、デスピーナが、すべてソプラノ記譜。《魔笛》も驚くなかれ、童子や侍女の第3パートを含めて、すべてソプラノ記譜なのです。ソプラノが広い概念で、現在のメゾを含んでいた、とも言えるでしょうが、両者の間にはっきり線を引くことは不可能です。

ここで、次の疑問が出てきました。それは、モーツァルトのオペラに一体アルトは存在するのか、という疑問です。

円熟期のオペラには、ひとつもありませんでした。そこで舞台作品を前へ前へと調べていくと、最初のオペラ・セリアである《ポント王ミトリダーテ》のファルナーチェがアルト記号で書かれており、これが唯一の例外であることがわかりました。一般論として、モーツァルトのオペラではテノールとバスに対応する女声の分離は見られず、もっぱら高めの音域が活用されている、と言えそうです。このことは、おそらく当時のオペラハウスの状況とも関係があるのでしょう。

これが意外に思われるのは、合唱の第2声部がつねにアルト記号で書かれているためです。ミサやレクイエムのソロは、ソプラノ、アルト、テノール、バスの4声部です。たとえば〈トゥーバ・ミルム〉の場合、モーツァルトのスケッチでは歌声部が途中まで一段で書かれていて、記譜がバス記号、テノール記号、アルト記号、ソプラノ記号と変わってゆきます。そしてそのたびに、歌い手が交代するのです。