論文完了2017年10月10日 22時05分56秒

今日をもって、論文が完全に手を離れました。2日に本体は提出していたのですが、追加提出すべきものが若干あり、完了は今日、10日になりました。事務局には、本当に親切に対応していただきました。

審査等ありますので公表は先になりますが、概要だけ。

全3部。本体はA4の用紙で292枚、別冊の図版・譜例が102枚です(図版71、譜例223)。内容は、第1部がキリスト教関係(受難、福音書、礼拝、コラール等)で、68枚。第2部が受難曲の歴史とバッハの《ヨハネ受難曲》作品史を中心に、50枚。第3部が作品各論で、148枚、残りが参考文献と付録になります。ファイル3つを1点として提出しました。

がんばったと思いますが、いま、反動が来ています。言葉を換えると、消耗感ですね。ゆっくりお休みくださいと言ってくださる方もありありがたいのですが、消耗していると、心地良く休むこと自体が困難だとわかりました。時間が経つと元通りになるのか、論文を書いた代償として生命力をなにほどか失ったのか、それがわかりません。

ずっと机に向かっていました。ペースが戻った今も、仕事をするにしろしないにしろ、形はそのままです。そうしたらテレビで、座ったままというのは寿命を縮める、という番組をやっているではないですか。とはいえ、コンサート巡りといった活動は、まだ辛いです。

絶体絶命2017年09月25日 22時14分46秒

先週後半は大阪で過ごしましたが、もちろんノートパソコンを持ち込み、時間を惜しんで、論文に励んでいました。

論文を提出するためには、製本が必要です。その心づもりをしようと、提出する大学に入っている三省堂書店に電話をかけ、10月2日(月)に受けとるには何日にお渡しすればいいか、と尋ねてみました。先週金曜日のことです。

担当者の返事は、「中2日見てください」というもの。そのぐらいは普通かなと思い、では何日に提出すればいいですか、と訊いたところ、「27日にお持ちください」とのこと。えっ、27日って、水曜日ですよ!

そこでわかったのは、「中2日」には、土曜日も日曜日も含まれない、ということ。当たり前のようですが、想定していませんでした。今は月曜日の夜で、もうじき火曜日になります。まさに、絶体絶命の状況です。

まだ、詰めるべきところ、補うべき情報、序文、レジュメ、参考文献など、課題がたくさん残っているのです。しかしもう疲れてしまいましたから、「すべては明日じゃな」という、真田幸村の心境で作業をやめました。悔いなくやりたい、と思っていましたが、悔いが残ることだけは、確実になりました。

尊敬する友人とのお別れ2017年09月20日 22時33分29秒

18 日の月曜日には、六本木の国際文化会館で、8月に逝去された三宅幸夫さんのお別れの会がありました。尊敬する友人でかけがえのない同業者であったものですから、こちらを、すべてに優先させていただきました。

訃報に接したとき、すぐにでも追悼の文章を書こうかと思ったのですが、時期を待った方がいいようにも思われ、控えていました。でも結果として、新鮮な気持ちでスピーチができました。専門的な能力のきわめて高い方で、ワーグナー研究、日本ワーグナー協会の運営と実績、音楽批評、慶応大学その他での教育などに並びない業績がおありになり、惜しんでも余りあるご逝去でした。

私は協会理事ですのでお迎えする方に回らせていただきましたが、予想をはるかに上回る方がお出でになり、庭を開放してスペースを作ってもらうことに。こういうときにわかる、人徳です。奥様を力づけにいらっしゃる方も、たくさんおられたようです。万人の認める、有能で献身的なパートナーでいらっしゃいました。

展示されている出版物に交じって、研究用のスコアがありました。考察やメモを、丁寧に美しく書き込まれているのに驚嘆。自分が恥ずかしくなりました。とてもいい会になりましたと、お伝えしたいと思います。

装飾は面白い2017年06月12日 03時53分09秒

いま、フランクフルトの空港で乗り継ぎ待ちをしているところです。順調に旅をしています。仲間からは、すでに到着という連絡が。今頃、ガーディナー指揮の宗教改革作品(シュッツ、バッハ)のコンサートを聴いていることでしょう。

昨日、10日(土)は、神戸のデザイン・クリエイティブセンターで、藝関連の第12回公開シンポジウム「21世紀、いま新たに装飾について考える」が開かれました。東北芸術文化学会の團名保紀さんと東洋音楽学会の遠藤徹さんがコーディネーターを務め、意匠学会の川島洋一さん、美学会の髙安啓介さん、美術史学会の玉蟲敏子さんが研究発表、そして上記すべての学会に所属している藤田治彦さんがコメンテーターに回るという布陣。

発表が視覚に偏りましたが、装飾の重要性は音楽も劣りません。そこで、私が西洋音楽における装飾の基本的な話をし、久元祐子さんが実演。東洋音楽側は遠藤さんの解説で、小日向英俊さんがシタールの演奏を披露しました。

一見盛りだくさんですが、発表者とコメンテーターの方々がしっかり準備してくださったので、学会横断の学術的討論会といいう趣旨にふさわしいものとなりました。私自身にとってもたいへん面白く、非常にためになったというのが実感です。裏方の活躍もたいへんなものだったので、それを含め、皆様に御礼申し上げます。

深夜に帰宅し、今日は飛行機というスケジュールは辛いものがありますが、責任を負っている藝関連のイベントを盛況裡に終えることができ、ほっとしました。


日進月歩2017年05月16日 09時47分28秒

ランサムウェアの被害に世界中が巻き込まれているという話は、人ごとではありません。便利はかならず裏腹の危険を伴っているのが、世界というもの。しっかり対処したいですね。

数日前私は、Windows立ち上げの際にパスワードを打ち込めないという状態になり、立ち往生しました。ノートパソコンを代用しながら症状を文章書きして検索し、ソフトキーボードを使うことで、幸い解決することができました。これは、ネット環境をマルチでもっているという発展のおかげです。

それにしても、ネットの情報展開はすごい。どんな分野でも右肩上がりに進んでいることなので、資金や人手がどうやって確保されているのか、その都度心配になります。

ドイツに行く前に何とかたたき台を作り、何を調べるべきかをはっきり絞り込もうと思っている、《ヨハネ受難曲》の論文。福音書研究の部と作品研究の部では一応の原案を作ったのですが、それをつなぐ前史の部分に課題が多く、後回しになっていました。

ところが、これもネットでただならぬ量の情報が手に入ることがわかり、驚くやら、ありがたいやら。宗教改革時代の神学書がずらりとデジタル化されていることについては先日お話ししましたが、Petrucciの楽譜サイトも、たいへんな発展ぶりですね。バッハ以前の、誰も知らないような受難曲の楽譜も、一応と思って検索してみると、かなりの確率で出てくるのです。おかげで、そのあたりもどうやら形をなしてきました。

以前は、ネットでは研究はできない、なぜならそこには「情報」しかないからだ、と言われていました。しかしいまや、じっくり研究するに足る資料が、ネットで手に入るわけです。私は足を使う研究は苦手な方なので、このありがたみをぜひ生かしたいと思います。

なつかしい図書館2017年05月04日 00時11分51秒

昨日、じつに久しぶりに、国立音大の図書館を訪れました。

私は出不精のところがあり、こまめに足を運ぶたちでなかったことを悔やむこともあります。しかし連休前であるからにはここで行くべきと思い定め、古い入館証をもって出かけました。

好天の五月です。玉川上水の駅から大学までの道には五月がびっしり咲き、大学の緑も美しさひとしおでした。昔の建物もすっかり整備され、以前にも増して、快適に使える空間になりました。古い入館証がまだ有効なのにびっくり。当然入れないと思い、入り口のインターホンで、「礒山と申しますが・・」などと言ってしまいました(←元館長です)。

親切にしていただきながらあらためて思ったのは、家にそれなりに環境が整っていても、図書館では勉強が広がるなあ、ということです。研究にはたしかに「足で稼ぐ」という側面があり、それがちょっと、苦手なのです。

5月の前半に、じつはかなり、使える時間があります。ドイツに行く前に論文がどこまで進められるか、ここが勝負になるので、集中したいと思います。

すべてはモチベーションから2017年03月06日 23時49分02秒

名古屋泊まりの強行日程で、へとへとになった話を書きました。でも正確に言うと、それにはもう一つ、条件がありました。

私は、5本の論文の載った、どちらかといえば薄いドイツ語論文集を携えて、新幹線に乗ったのです。そして移動のほとんどの時間を費やして、読みふけりました。大いに集中し、帰宅した時には、すべての論文にアンダーラインが引かれていました。

これには、自分で驚いてしまった。最近は目も疲れるので、車中で本を読む機会が減りつつあり、むずかしいものはとても、という状況になっていたからです。

それでもできた理由は何か。これが今日のテーマですが、3つあると思います。1つは、毎月一度編集者様に進展した原稿をお渡しする約束になっていて、その日にちが近づいていたこと。少しでもいいものをお渡ししたい、という念願がありました。

第2に、研究が次第に煮詰まってきていて、どこに問題があるか、何を知りたいかが鮮明に絞られていたこと。それによって、メリハリをつけて読むことが可能になります。第3に、今回扱っている部分が最近提起された新説にかかわる、たいへん面白い部分だった、ということです。

それでつくづく思ったのは、モチベーションこそが研究をはかどらせる、という真理です。それによって研究力が啓発され、普段できないことができるということが、ありうるのです。一応読んでおかなければ、というスタンスでは、とうていこの効率は考えられないことで、くたびれる、進まない、寝てしまう、という方が多い私です。

後進の方に覚えておいてもらいたいと思って書きましたが、集中した反動は、やっぱりありますね(笑)。前兆は水曜日にありましたが、土曜日に起きたら喉が痛く、風邪とも花粉症ともつかない症状が、一気に襲ってきました。

月曜日は、予定をキャンセルして休んでしまいました。しかし風邪か花粉症かは、ネットで見分け方を調べても、どちらとも言えない感じです。でも、だいぶ良くなってきました。人生はやはり、バランスが取れるものだと思います。いろいろな意味で、マイナスも、プラスもある毎日です。

アメリカ国歌2016年08月15日 06時36分06秒

前夜飲まなかったので、よい目覚めでした。お昼からガン検診が入っているのです。

この2週間は予定がかなり少なく、専念とまではいきませんが、研究に時間を費やしました。主として、新約聖書関連。ブルトマンのイエス観など、すごいなあと思います。しかし今日から、月も後半ですね。予定もいろいろ入ってくるので、どこまで時間が確保できるか、工夫がいります。

オリンピックを見ているんじゃないの、という声あり。やっぱり見ますよね。スポーツの祭典。若さと輝きにあふれて、すばらしいと思います。リオで大丈夫か、という声もありましたが、大過なく進んでいますね。

日本選手のがんばり、格別ではないですか。盛り上げようとあの手この手を使う中継の手口は見破りながらも、結局は乗せられて、感動しています。プレッシャー最大の状況でベストを出すのが、一流の証明なんですね。

音楽の話をしましょう。アメリカ国歌って、強いインパクトがあると思われませんか。最近旋律を聴くと、順次進行と跳躍をどう組み合わせているかを、つい考える癖がついてしまいました。その意味では、誰でも歌う曲で、これほど跳躍ばかりの曲というのは珍しい。軍楽隊から出た曲だからかと思ったら、酒の歌が原曲なのですね。

蛇足ですが、どうなっているかというと・・。アウフタクト付きの3拍子。2小節単位のフレーズを4つ重ねて、最初の楽節になります。

調性抜きの階名でいくと、最初のフレーズは 「ソッミ|ド・ミ・ソ|ドー」で、全部跳躍です。導入でまず下に進み(前提の効果大)、ドを獲得したら、大股で上のドまで歩む。普通の分散和音ですが、声楽的ではないと思います。

ここからさらに上のミに飛ぶのが工夫で、歌はたいへんですが、力強い表情が出ます。初めて音階の順次進行となり、ドまで降りた次は下に飛んで、ミから、音階の登り直し。ただしファには♯が付いていて(ドッペルドミナント)、ソを座りよく導き出します。すなわち、「ミッレ|ド・ミ・♯ファ|ソー」です。

ここでアウフタクトが付点から均等に変わるのが、次にくる拡大された付点を見込んだ、いい隠し味。ソからミに一気に飛んで(=長六度の力強い効果)長い音符を確保しますが、これが2倍の付点音符です。ここでクライマックスを築いた後は、音程の順次下降。「ソソ|ミーッレド|シ-」となります。

最後のフレーズは付点なし。アウフタクトがラで始まる味がよく、最初のフレーズとは真逆に、大股で下降してオチがつきます。「ラシ|ド・ド・ソ|ミ・ド」です。

というわけで、声楽的な旋律ではないが、じつによくできている、と感心した次第。荘重で動きの少ないイギリス国歌とは対照的です。

ヘンデルが大事!2016年07月25日 00時03分15秒

23日(土)、東京タワーの真下にある機械振興会館という会場で、「モーツァルトはヘンデルから何を学んだか」という講演をしました。

主催は、日本モーツァルト愛好会。大きな団体で、熱心な聴講者がたくさん集まってくださいました。ヴォルフ先生の『モーツァルト 最後の4年』には、モーツァルトにとってのヘンデルの重要性が、縷々語られていますよね。そこで、そのことを特化して考えてみようと、このテーマを選びました。バッハとの関係はよく耳にするが、ヘンデルとの関係についてはあまり聞く機会がない、というご要望があり、私も関心がありましたので、思い切って取り組んでみました。

相当慎重に、準備しました。書簡の中でヘンデルにどんな言及があるか。フーガとモーツァルトの初期的なかかわりは。ヴァン・スヴィーテン邸におけるフーガ体験において、ヘンデルとバッハはどう違ったか。ヘンデルの影響がとくにある作品は。ヘンデルのオラトリオ編曲のもつ意味と、その、モーツァルトの晩年様式との関係は。

といったことを自分なりに整理し、系統立ててお話ししました。本当にやってよかった、というのが実感です。なぜならば、ヘンデルの影響の大きさをバッハと区別してある程度まで理解し、その重要性を認識するとともに、これまでの不明を、大いに恥じているからです。

《レクイエム》の冒頭2楽章がヘンデル作品を下敷きにしているという事実は、単独で聞くとえっと思うようなことです。でも、ヘンデル編曲の実際と、それがモーツァルトに与えた影響をたどってゆくと、当然のことだったと思わざるを得ません。

いい勉強をさせていただいたので気持ちが高まり、二次会まで、会員の方々と盛り上がりました。すばらしい一日でした。

巨大な森の中へ2016年02月18日 08時59分22秒

生活の流れがどこか変わってしまって、「旧暦年頭所感」から6日、更新しませんでした。その間連日仕事が続き、地方に出かけたり、大事な会議に参加したりしているのですが、大きな関心事が直接の目的ともなってその上に座ったためか、時間の流れが速くなってきました。

まず行うべきは、聖書の研究です。福音書のみならず、書簡やキリスト教の成立史にも一定の理解をもちたいと思い、文献と向かい合っています。新約学は日本にもすばらしい先生が何人もおられるので、手引きには困りません。

針の穴をつつくような研究の積み重ねに感嘆しつつ読んでいくわけですが、同時に、絶対に確かなことは誰も言えない世界だ、という実感も生まれてきます。ありとあらゆる仮説が自己主張している。なんとか妥当な基本理解を導き出そうとしても、門外漢にはむずかしいですね。

仮説は、自分はこう考えたい、こう解釈できたらいいなあ、という思い入れから発生するという側面があります。それは、研究対象に対する愛の、いわば負の側面です。対象に比べれば小さなものでしかない自我が、思い入れを生み出します。

しかしそれは、絶対に必要なことでもあるのです。対象に迫っていくためには長期にわたる研鑽と、対象への没入が欠かせません。それを支えるのが、対象への愛というべきものです。普通に言えば、生き生きした関心、知ることの喜び、モチベーションでしょうか。

それは客観的な研究には有害だという意見に出会うことがありますが、最初からそれを言ってはダメです。遠くから、あるいは上から眺めているだけで事柄の真髄に肉薄することは不可能だというのが、私の見解です。

そこで大事になるのは、自分の思い入れに対する自分自身の警戒心、浮かんだアイデアを検証する自己批判力です。それこそが研究者のプロフェッショナルな能力だと思いますが、それは、対象への迫りあってこそ発揮されるものです。それを放棄しかたら客観的、というわけではないのです。

「対象にコミットしてこそ普遍が見えてくる」と私におっしゃったのは小田垣雅也先生ですが、たとえばバッハに普遍性があるとしたら、そのようなもの以外ではあり得ないと思います。

というわけで巨大な森の中に迷い込んでしまっており、時間がかかります(←コメントへのご回答)。